言葉に支配されてないか?いつの間にやら。

芸人たちがペラペラと、顔も見ずに喋ってやりとりしてるの見て思った。

 

言葉がなかった時は、何とかして(いや、そこまで伝えなきゃ!!って神経質な思い自体無かったかな…)伝えたい時、現したい時は、表情、身振り手振り、大げさな動き、などで伝えようとしていたのではないか。

 

あと、言葉が生半可にあるもんだから、それを喋りまくり、そんで受け取る方は、何とかその全部を解読しようと脳みそをフル回転させ、(まぁほぼ無意識にやってると思うが。いや、だからこそ余計に)めちゃめちゃ脳を疲労させる運びとなっていると思ったのだ。

 

こんな無駄に、そして無意識に疲れてしまっている状態が良いことなのか??

 

便利だからか??便利ならそれでいいのか??

 

そもそも答えなんてどこにもないじゃないか!

 

なのに答えを掴もうと、言葉を解読しようと、言葉を駆使しようと、必死じゃないか!!

 

無意識の必至じゃないか!!

 

…とは言っても今更言葉を辞めマショーとはならないから、じゃあ何が最善なのか?

 

このことを忘れないことだよな。

 

答えなんてないから、言葉はあくまでツールとして、片手間にちょいと。

 

ぐらいじゃないと

 

 

…と、書きまくっている間は、やはり脳内思いっきし言葉に支配されてたような感じだったかも

 

絵を描く

絵を描きたい

と ときどき思うが、

おっくうな気持ちが勝っちゃうのは、

その通りに描かないといけない!

と思い込んでいるからか

多分、写生大会のせいだよな。

 

見たままをてきとーに、そして勝手にそこに付け足し、アレンジ等々…

風景をベースに、好きなように描きたいようにかきゃーいいな

 

描くっていうのは生きてる時の思い出じゃないかな。

写真もそうなるが、写真の無かった時代、人は何故か絵を描いたのかもしれない。

見ている風景を何か残したかったのかもしれない。

 

 

ピカソは、アイデア重視の人間でした。それが成り立ったのは、アイデアが湯水のごとく湧き出てきたからです。ピカソは描こうと思えばいくらでも描けました。むしろ時間のほうが足りなかったのです。

ピカソは、アイデアはいつ降ってくるかわからず、コントロールすることもできなかったので、絵とは「衝動的なものだ」という実感を持ったのかもしれません。降ってきたアイデアをキャッチして、その勢いで描くしかなかったのです。

対するゴッホは、想像で絵を描くことができませんでした。必ず模写から入り、描いている中で個性を表現しました。絵を描くには、準備を整え、対象物に向かい合うことが必要でした。

ゴッホの絵のアイデアや個性は、模写の積み重ねから生まれたものだったので、彼が、絵は「一時的な衝動ではない」と述べたのもうなずけます。

 

力を抜かないと始まらない

何かしら力が入っているのかもしれない。

体はもちろん、頭の中にも。

24時間そうなのかも。寝ているときにも入っているのか??

 

あえて力を抜く。というか力を抜こうとして抜かないと抜けないくらい無意識に常に力が入っている状態なのかも。

 

やりたくないことはやらない。やりたいことしかやらない!

とか言ってみても、力が常に入っている状態だと、やろうとしてやるっていうことしか実はやってないのかもしれない。

 

ほんとうにやりたいことっていうのはもしかして、ぼけーっとした時に勝手に湧いてくるものなのかも。

それがやりたい(やりたいことなんていうからそれが何かたいそうなものに感じてしまうのかも。やりたいことっていうか、川の流れのようなものがやってくるという感じか。で、その川の流れに飛び乗る)ことっていうものかもしれない。

 

まず、力が抜けている状態がどっかにないと(24時間のうち3分とかでも)始まらないのかもしれない。流れが。

始まらないことにはなんにもなんないのは当たり前だよな。

 

 

まずはスタートを起こさないと。